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●一人ひとりの保育
●環境に即した指導方針
●ご家庭との密接な連携
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一人ひとりの保育
一人ひとりのこどもは自ら伸びる力を持っています。その力は細かな知識を積み重ねるのではなく、さまざまな環境に働きかけ、互いに影響を受けあい、経験を通して他者と出会い、時にはぶつかり合いながら、遊びの中で獲得されてゆくものです。そこでは子どもが、自分はいま何を感じているのかということと、その感情に対する周囲の暖かな共感や支援とが、のちに子どもが自分を大切に育ててゆく気持ちを養う不可欠な要素となります。
しかし、周囲の大人はただ単純に褒めたり、驚いてみせたり、子どもの行動を修正したりすれば良いというわけではありません。大人の方で先回りしてしまっては、子どもの自身の発見や成長の機会を奪ってしまう場合もあります。
幼稚園の先生は子どもをじっくり観察し、「どうすれば子どもを伸ばせるか」ではなく「どうすればひとりひとりの子どもが自ら伸びてゆこうとする環境や条件を生み出せるのか」を研究しています。そして、「ここぞという場面で適切な援助するにはどうすればよいか」を考え続けます。
子どもの成長への共感や支援に対し、「子どもを甘やかしている。」という意見があります。しかし、社会に対して子どもをどうしつけて行くかという人間の社会化の問題と、子どもが自らの成長に取り組めるようどう支援してゆくかという教育の問題とは別の話です。前者は「他人からみて自分はどうあるべきか」という問題であるのに対し、後者は「自分はどうありたいか」という問題であるからです。
幼児期という自分を探す旅のはじまりには、子どもが持ち合わせている「生きることは素晴らしい」「成長することは楽しい」「いまの自分が大好き」という心性を素直に伸ばしてゆくことが第一です。このエネルギーを自らのうちに生み出す力を上手に育てることができる子どもは、その後の成長において、自分の人生にしっかりと向き合い、他人や周囲に配慮しながら自らの義務と責任をすすんで引き受けてゆくことができるようになるからです。
この前提なしに、どんな方法で子どもをしつけても、それは表面だけ親や周囲のいうことをきく「良い子」を装うことに長け、内面は他人からどう見られるかということばかりを気にして、自分のない、自分の人生とその問題を、他人や社会のせいにして自ら向き合おうとしない、無責任な人間をつくってゆくことになりかねません。
自身を尊重できる人は、他者にも配慮します。自分を励ますことのできる人は、他人にも勇気を与えることができます。自分を受容できる人が、自分とは違う他人を受け容れ、自らを成長させてゆくことができます。
環境に即した指導方針
私たちの社会は、経済的な繁栄を目指して発展してきました。自然が破壊される一方で、機能や効率を優先する都市生活は、人の働き方や生活スタイルの多様化させ、家族の存在意義を大きく変容させています。同じように、子どもの育ち取り巻く環境も大きく変化しています。地域で体を使って遊ぶ機会と場所が減り、テレビやインターネット、ゲーム等の情報メディアは子どもの遊びを根本から変質させています。
教育においても、子どもの「育ち」や「学び」のどこかに要領や効率を求める考えが入り込み、「子どもに深い愛情をもって接し、教育に多くの投資を行いさえすれば、子どもは能力を身につける。」と、愛情や教育の中身を問おうとしなかったり、逆に「育て方を間違えれば大変なことになる。」「子どもは管理しなければ駄目になる。」と中身のはっきりしない漠然とした不安を抱えたりする、いわば「ああすればこうなる」式に人間の成長を捉える考えが拡大しているように感じられます。
しかし、子どもや子ども時代とは人間の産品や観念の所産ではなく、今も昔も変らずに自然人としての人、すなわち自然の一部として存在してきたはずです。自然が相手であれば、仕組みを全て理解することは不可能です。また、その対応は少しずつ相手の様子を見ながら、毎日手入れしてゆくほかにないと思われます。農業をはじめとして自然を相手に仕事をしていた昔の人々は、そのことを文字通り自然に理解し、子どもに対しても同じように接していたのではないでしょうか。
プリンス幼稚園では子どもの「いま」を見つめ、『人が成長するということは、どういうことなのだろうか』、『子どもに対して自分に出来ることはないだろうか、また、出来ないこととは何なのか。』ということを、一人ひとりが考える良い機会にすべく、子どもたちの「あした」に活かすことを目的とし、小規模な幼稚園ならではの交流と、子どもと子どもを取り巻く環境へ働きかける取り組みを行いつづけています。
ご家庭との密接な連携
人間が真に自由に生きるということはどういうことをいうのでしょうか。欲求段階説で有名なアブラハム・マズローは、「本分(duty)」とは、義務や強制ではなく、「状況があなたに課すことを与えること、そして自由に与えること」を意味し、続けて本分と義務の違いについて次のように語っています。
「あなたの子どもがおなかをすかせていれば、あなたは子どもに食べものを与えるだろう。しかし、愛情を感じてそうするのと、あなたの後継者としての子どもに対する責任を感じてそうするのでは本分と義務の大きな違いがある。」
核家族化、地域社会の消滅など、各家庭が孤立してゆくなかで、子どもに気持ちが伝わらない、子どもの気持ちが分からない、子どもとどう接したらよいかわからないなど、子どものとの関係に悩む保護者が増えているといわれています。 マズローのいうように、私たち大人の愛情・共感は本分に基づくべきものであるとしたら、義務から導き出したり、見返りを求めて与えたりしていては子どもには伝わりません。また、子どもが自然であるならば、愛情を与えた結果は人智の及ぶものではないはずです。
「親はなくとも子は育つ」かもしれませんが、ともに育つ隣人の存在なしには人間が成長してゆけないことは、社会とその人間関係から隔離されて育った人の例を見れば明らかです。大人が子どもを付属としてではなく、時を違えてともに生き、ともに成長するひとであることを認め、子どもを支配するのではなく、心からの愛情と共感をもってともに育つこと。そのためは、まず私たち大人が自分自身の成長を大切に育むことです。
プリンス幼稚園では徒歩通園を原則として、毎日の登降園の際にお互いの表情の見える連携した保育を基本に、園において、保護者が子どもについて考えたり、同じ悩みを聴きあったりする場を設け、「子どもも大人もともに育つ」幼稚園を目指しています。 |
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